「差別はたいてい悪意のない人がする」という本に出会いました。読んでいたら刊行記念のオンライン参加可能なイベント「悪意のないマジョリティとは誰か」を見つけたのでそれまでに猛ダッシュで読んだのですが、本とイベントを通して感じたことを書き留めて置きたいとおもいます。
- 「ある」ことを「ない」ことにしないために
- 鳥かごという装置
- ジェンダーギャップ120位の日本の悪循環
- 透明な自動ドアっていうのもある
- 私の立ち位置は1つじゃない
- 私の立ち位置と役割、とか言いながら…なんかザワつく
「ある」ことを「ない」ことにしないために
正直、差別について書くのはとても緊張します。学んでも学んでも自分の中に「差別」があるという気づきの連続だし、「悪意のない」のがたちが悪いということは自分の体験からわかってもいるので、書いてる中で私が悪意なく誰かを差別していないかと思ってしまう。
でも、オンラインイベントで「マジョリティはその場を立ち去る特権がある」という言葉や、「子どもをレイシストに育てるためには差別について語らないこと」。
だから日本はレイシストが育つ環境だというのを聞いて、「ある」ことを「ない」ことにしないためにもこうして書いておこうと思いました。
私が差別について知りたいのは、もともと私の中にたくさんの差別要素があると知っていて、それと同時に差別したくないとも思っているからです。
そしてやっぱり、学び続けるほどに自分が気づかずにいたことや当たり前だと片付けていたことが差別だと気づくことが多いです。自分の中にいる差別主義者に会うその瞬間はショックだけれど、そのままでは嫌なので知っていきたいのです。
鳥かごという装置
今回この本を読み始めたのは「差別したくない」側からだったのだけど、読み始めたら差別される側の私のセンサーが言葉に反応しまくりました。そんなつもりではなかったので驚いたけれど、感じたことは感じたことなので書いておきます。
例えば…
「構造的差別は、差別を差別ではないように見せる効果がある」、差別によって「デメリットをこうむる人さえも、秩序に従って行動することで、みずから不平等な構造の一部になっていくのである。(本文より)
私は結婚してから夫の仕事を手伝うようになったのだけど、その立場にとても苦しんできました。それってもうまさにまさにまさに、この一文で表されていることそのものなのです。
第3章のタイトルは「鳥には鳥かごが見えない」です。
おっしゃる通りとしか言いようがありません。
私自身ずっと鳥かごの中にいながら鳥かごが見えておらず、自分から入ってしまった鳥かごなのだから不平は言ってはいけないし、わきまえなくてはと思い続けてきました。
「差別を受けていることを認識しながらも、みずからが足りず、劣等なせいだと思うため、差別に抵抗することもない」
私もこんな風に、鳥かごが見えていない状態で「私が足りない」「私が悪い」と思い込んでいたので、結果、鳥かごの存在に気づくのに20年近い時間がかかってしまった。
私の苦しみが構造的なものだとわかった今は、私は私で夫は夫。ただ結婚しただけ。そう認識できるようになってやっと苦しいモヤモヤが晴れたけれど課題は山積みです。
ジェンダーギャップ120位の日本の悪循環
これって日本のジェンダーギャップがだだ低いのとも関係あって、悪循環なんですよね。
ジェンダーギャップの低い状態が当たり前なので、おかしいと気づきづらい。 ➡ 気づいても大きな声をあげないと聞いてもらえない。 ➡ 差別されいる側の女性もそれが「当たり前」でわきまえるのが当然だと思っている人が大半だから声がかき消されてしまう。 ➡ 自分で選べなかったことであっても置かれた場所で咲きましょうとか言われがち。 ➡ 声を上げた自分が悪いことをしているような気持ちになる。 ➡ 意志決定の場の多数を占める男性は、自分にはまったくない概念だから何を言ってるかさっぱりわからないので黙ってる。➡ 自分たちが変える必要性を感じないから変えない。(むしろこのままがいい)➡ 女性がいくらおかしいと思って声を挙げてもなかなか社会や身近なところで変化がなく疲れて諦める。➡ やっぱ変わんない 。➡ 次世代にもそれが刷り込まれる。➡ 振り出しに戻る。
これ、「男女」じゃなくてもあてはまることが世の中にはたくさん。
※日本のジェンダーギャップは世界156カ国の120位(前年121位)(2021年3月31日発表)
透明な自動ドアっていうのもある
そして先ほどの「大きな声をあげないといけない」というのはイベントで出口真紀子さんがおっしゃっていた透明な自動ドア(マジョリティ特権のある人は何もしなくても透明の自動ドアが開いてどんどん前に進めるというもの)の例えがあまりにもしっくり来ます。
何かをするのにあれこれ頑張らなくていい。説明しなくても認めてもらえず。何も気にしなくていい。それが透明な自動ドアを通れる者のマジョリティ特権。
私の立ち位置は1つじゃない
とはいえ、第1章のタイトル「立ち位置が変われば風景も変わる」第2章では「私たちが立つ場所はひとつではない」とあるように、男女というカテゴリーで言えば私はマイノリティだけど、他の場面ではマジョリティなわけで、そうなると今度は私が透明な自動ドアのおかげでどんどん先に進めているから重いドアを開けないと先に進めない人に気づかない「悪意のないマジョリティ」になり得ることになります。
「構造的差別は、差別を差別ではないように見せる効果がある」、差別によって「デメリットをこうむる人さえも、秩序に従って行動することで、みずから不平等な構造の一部になっていくのである。(本文より抜粋)
だったものが立場を変えて
「差別を差別ではないように見せる構造」の中で、差別によってデメリットをこうむる人を秩序に従って行動させていることに無自覚で、みずから不平等な構造の中の加害者になっていく。
という具合に。
自分はすいすい通ることのできた透明な自動ドアを通れなかった人に、根拠もなく「大丈夫だよ」などのポジティブ風な悪意のない言葉をかけたり、大きな声が聞こえてきても「当たり前」「仕方がない」とその声を書き消してしまう。わからないからと無視する。わかったような顔をして「頑張って」とか言っちゃう。「私は気にならないよ!(キラッ)」とか。
よく聞きがちだし、私も前はあちこちで言っていた自覚があるし、今だって気をつけないと言ってると思う。
自分は言われてもやもやするのに。
うるさい言葉の数々も立場が変われば私が悪意なく発しているということ。意識をアップデートしていかないと。
私の立ち位置と役割、とか言いながら…なんかザワつく
正直私は圧倒的にマジョリティの側にいます。日本国民という枠組みの中で自分でいることができるし、住居や仕事がある。こうして誰の目も気にせず表現することができるし投票という形でコミットできる。
だからマイノリティが現状を変えようするのを「応援する」んじゃなくて、「マジョリティが」私たちはこの不平等に反対だと声をあげて法律だったり仕組みを変えていく。それがマジョリティの私の責任だし役割なのだ。
恥ずかしながらこんな風にマジョリティの役割を言語化して落とし込めたのは最近のことで、先ほども触れたような「私がいる鳥かご」を壊したいと思い動きだしてからのこと。マジョリティが本気を出して声をあげてくれないと何も変わらないし、マジョリティが黙っていることが残酷なことだと身をもってわかったからなのです。
そして、こうして書き出してみると様々な立場の私の解像度が上がって、気づきたくない何かがザワザワし始めます。「気づきたくない」が発動するということは悪意のない差別があるってことではなかろうか。たぶん絶対。
そう考えると私にとってこの本は、私の中にある「悪意のない差別」を浮き上がらせ、ザワザワを一つずつ言葉にして、受け入れる覚悟を促してくれるもの。
そうすることで自分のセンサーや社会を見る目を鍛えるためのヒントが散りばめられている教科書なのだと感じました。
「私たちは慣れ親しんだ社会秩序にただ無意識的に従い、差別に加担することになるだろう。何ごともそうであるように、平等もまた、ある日突然に実現されるわけではない」
とにかく特権に溺れたくそダサいマジョリティにはなりたくないです。
そろそろ終わらようともう一度パラパラと本をめくったら、書きたいことのほんの一部しか書けてない。全然書けてない。プロローグ程度しか書けてない。
ジョークのこと、トイレのこと、公共空間、レッテル、「多様性」という言葉、法整備のことなどなどまだまだたくさん。
線を引いたり付箋をつけた箇所の画像を全文貼りたいけどそれは違法になってしまうのでやめときます。もしも気になってもらえたらぜひ手に取ってください。(誰の回し者でもありません。念のため)
イベントの濃厚な文字おこしがTwitterにあったのでリンク貼っておきます。
#差別はたいてい悪意のない人がする 刊行記念イベント @ Readin'Writin' 、このあと19時開会です。ところどころになると思いますが、実況ツイートしたいと思います。
— 大月書店 Otsuki Shoten Publishers (@otsukishoten) 2021年9月23日
ハッシュタグは #悪意のないマジョリティ で!