きのこの部屋

読後メモやお寺の中のジェンダーなどなどについて書いてます。

留守番という仕事

個人的なことが政治的すぎて、政治的なことが個人的すぎて、何をどう訴えたらよいのだろうかと途方に暮れている日々である。

友人たちからするとどこが?と思われるかもしれないけれど、私はこの2年、家に内に籠っている。出かけるのが面倒になった。出かけてはいるのだけど。

それからとても疲れている。そんな風に見えないかもしれないけれど。
この疲れは年齢に伴うものなのかもしれないし、生活に起因することなのかもしれない。

個人的なものかもしれないし、政治的なものなのかもしれない。

少し元気になってきた今思うと、去年はご飯を作るのも食べるのも面倒、片づけるのも面倒で、どうしていたんだろうと思うほど。買い物に出るのも面倒で食材がすっからかんなんていうこともよくあったし、逆に作るのが面倒で宅配で届いた食材を悪くしてしまうこともあった。とにかく。元気でなかった。そんなのよくあること!と思う人もいるかもしれないけど、元気のバロメーターは人ぞれぞれだ。もしかすると、それらを笑い飛ばせないほど疲れていた、といのが正しいかもしれない。

私のいる寺には大人が3人(私、夫、義母)いて、誰かしらが寺(=家)にいて電話番や来客対応をする。

留守番という仕事だ。

とはいえそんなに規模の大きな寺ではないので電話が鳴りっぱなし、来客がひっきりなしという訳では全然ない。全然ないけれど無いことはない。

「誰かしらが家にいる」ために、家族の予定をホワイトボードのカレンダーに書き出して、出かけたい日はそのカレンダーを確認して自分の出かける時間帯を書いておく。今日は良い天気だからちょっと歩いてこよう。というちょっとしたことでも確認が必要だ。さらには、もしかしたら書き忘れられた予定やたった今入った予定があるかもしれないので出かけても大丈夫か確認を取ってから出かけないといけない。

土日問わず比較的自由に出かけてるように見えるかもしれないけれど、そうやって確認して許可をとってから出かけている。

子どもが小さかった時は、朝起きて、今日は公園に行こうか?などと盛り上がってカレンダーを確認すると、前の晩のうちに予定が更新されていて、ごめん、出かけられないなんてこともたくさんあった。小さなことかもしれないけれど、悲しかったしつらかった。そういう1つひとつの積み重ねが、私はここでは無力なんだという小さな意識の積み重ねになっていったようにも思う。

この2年、出かけるのが面倒になってしまったのは、出かけるのに許可をとることに疲れてしまったということが原因だ。

許可なんて大袈裟かもしれないけれど、でもそうなのだ。

買い物1つ行くにも、私の頭の中は「今日は買い物に行こう。」ではなく「今日は買い物行けるかな?」なのだ。

「ちょっと散歩に行こう。」ではなく「今散歩に行けるかな?」なのだ。

出かけても大丈夫かを聞いて、大丈夫だったら出かけられるし、そうでない時もあるし、何時からは急に予定が入ったから何時までは大丈夫、とか色んなパターンがある。

もちろん、私の大事な用事は前々からちゃんと予定を入れておくから全部が全部許可が必要な訳ではもちろんない。

みんなで協力しあって予定を調整しあっている。

まぁ、きれいに言えばそうなる。

でも私はもうこの輪から抜けたい。

ぱっと思いついて誰の許可も取らずに思いついたままに出かけたい。

ただ、それだけのことがしたい。

こういうことを考えるとき、書く時に、かつて私が思い口にしていた言葉、「ここにいるから生活できてる。」という言葉が私の口を塞ごうとする。

でもフェミニズムに出会った今、それは違うと言える。

誰の許可も取らずに思いついたままに出かけたい。

ただ、それだけのことがしたい。