きのこの部屋

読後メモやお寺の中のジェンダーなどなどについて書いてます。

お寺の中のジェンダー(でもお寺に限らず日本中で起きていること)

 

仏教×ジェンダーに関するとあるイベントでお話しさせていただいた時のメモを少しアレンジして残しておきます。

 

抱いてきた違和感

僧侶と結婚した私が約20年お寺で暮らしてきた中で感じているお寺の中の「ジェンダー」平たく言うと「男女の不平等」、「女性差別」についてお話しします。

はじめに、お寺と一言でいっても、宗派や地域性、規模や運営方法など同じ形態のお寺を私自身見たことがありません。なので私の個人的な話になりますが、個人の問題が実は社会の構造によって引き起こされていることが多々あるいうことを付け加えておきます。

私は結婚してお寺に住むようになってから、ずっと自分の立場に違和感を感じて、居づらさや生きづらさを感じ続けてきました。

いつまでもお寺という環境に慣れないことや、どう頑張っても仏教に強い興味が持てない、そういったことが全部私に何かが足りないせいだと思っていつも苦しくて居心地の悪い思いをしてきました。

ある時、お寺で何か自分を活かせるようなことができたら良いのかもしれないと思ってグリーフケアの講座を受けました。そこで「あなたのグリーフ、喪失体験は何ですか?」と聞かれたときに、真っ先に思い浮かんだのが「お寺に来て私がいなくなってしまった」ということでした。自分を失くすという喪失体験があるということにそこで初めて気づきました。まぁでもその時はそれに気づいた私が、気持ちを切り替えていけばいいんだと思いました。

それとは違う学びの中で、私は日本国憲法に出会いました。中でも一番大事な条文13条の「すべて国民は個人として尊重される」という言葉に出会います。それを知って私はお寺の人間、寺の嫁である前に、個人であっていいんだと思うことができた。属性や社会的立場に囚われることなく「個」でいられるということは権利だと知りました。でもまだ私のお寺の中での居づらさ自体は自分のせいだと思っていました。

違和感 × ジェンダー

その後も色々と学び続けているうちに、ふと、私の持っている違和感は「ジェンダー」という言葉の中にあるかもしれないと思った。それで憲法ジェンダーなど幅広い分野で活躍される弁護士さんを講師にお迎えして、「SDGs」「憲法」「ジェンダー」をキーワードにした勉強会を主催しました。

そこで明治時代の家制度というのは「国による家庭を通じた支配」国家という大きな共同体の下に、家という小さな共同体。さらにその中に父親を中心とした家族がいるというピラミッド構造になってたと。

それを聞いて、お寺もそういう構造なんだとやっと気づけました。

教団があってお寺があってその中には住職、以下家族がいる。これまでの違和感の原因はこれだと思いました!

同じ頃に知人から「女たちの如是我聞」という冊子を頂き、そこに書かれていた「寺、家族、女性」というコラムを読みました。そこには私が感じてきた違和感が全部言葉になっていたんです。この違和感は持って当たり前のものだったし私のせいでもわがままでもなかった。むしろ典型的な例だととてもほっとしました。

でもまだ私の中で消化しきれずにいたときに、韓国のチョ・ナムジュさんが書かれた「82年生まれ、キム・ジヨン」という韓国で映画化もされて日本でも話題になった本を読んみました。

www.chikumashobo.co.jp

 

あらすじの触りをHPから紹介すると

「結婚・出産を機に仕事を辞め、育児と家事に追われるジヨン。常に誰かの母であり妻である彼女は、時に閉じ込められているような感覚に陥ることがあった。」

まさにこれが私の苦しみでした。

お寺にいる限り「常に僧侶の妻で寺の嫁」。私は結婚するまでは特に女性の役割を押し付けらずに生きてきた。とはいえ結婚を機に仕事をやめてお寺を手伝うという思考がすでに社会的にこうあるべきとされていた女性の役割をやっていたのだけど。仕事場も住まいも同じ場所で、「常に僧侶の妻で寺の嫁」なのが苦しかった。そしてこれは私の問題ではなく社会の仕組みの問題。その構造を容認している仏教界の問題ではないかと思うようになりました。

ちなみにここまでの流れと同じようなことを韓国のキム・ジヘさんが書かれた「差別はたいてい悪意のない人がする」という本の中で見つけたのですが「被差別集団に属する個人が差別を受けていることを認識しながらも、みずからが足りず、劣等なせいだと思うため、差別に抵抗することもない(p72)」まさに私はこの状態にとらわれていた。

 

www.otsukishoten.co.jp

 

ある日これまで述べたようなことをFBで投稿してみた。すると同じ立場だったり、そうでない友だちからも沢山のいいねと共感のコメントをもらいました。

この数年で自分の違和感の原因をさらに突き止めたくて学んできた。

どんな違和感があったかっていうと

まずは結婚するとき、僧侶と結婚するには仏教徒にならないといけなという曹洞宗ならではの謎ルール。権利の面からみると「個人の内心に踏み込む」行為でもあるし、「信教の自由」的にはどうなんだろう。夫婦の信仰が一致してないといけないんでしょうか。仏教界には結婚すると同時に女性に信仰を強制することが許される事情でもあるのでしょうか。

仏教界でもよくSDGsという言葉を耳にするようになりましたが、これってSDGsでいう「ジェンダー平等」といえるんでしょうか。

それから今は流石にもうないと思いますが、結婚式の時に、僧侶と結婚するということは家族ではなく寺の族と書いて「寺族」になることだと言われました。今日の自己紹介ではあえて肩書きを「寺族」としていますが、この寺族っていう言葉も、男性僧侶の自己実現のために、うまく作られた装置だと思います。寺族という言葉で何か役職でも与えたられたようになっているけれど、私の夫が僧侶というだけ。私はその妻なだけ。それ以上でも以下でもないはずなんですよね。

婚姻は当事者どうしの合意のもとのみに行われるものであって、家がするものじゃないし、ましてや何で仏弟子ファミリーに組み込まれるのという話。

「うちは妻と合意の上で幸せにやってるので問題ない」という方もいますが、そういう問題じゃなくて、差別的な仕組みが仏教界の中にあることが問題だと思います。

それから当時「寺族得度」と言って仏教徒になる儀式のようなもの?で戒名というものをもらいますが、その時に曹洞宗からよこされた戒名が夫の名前と私の名前を一文字ずつ組み合わせたものでした。それを見て私はかちんときたんです。夫が嫌いとかそういうことじゃなく。当人同士が望んだことならいいけど。勝手に押し付けられたのが嫌だった。女は僧侶の補佐だ。夫の付属品だと言われた気分。これって女性蔑視以外の何物でもないし、僧侶はあなたたちよりも尊くて偉い存在だということを表現しちゃってると感じています。

そして同じ立場の友人とよく話題にしていたのが家事をしてるのか仕事をしてるのかわからなくなる問題。仕事のすべてが家事の延長。境界が引きづらい。

 お寺って自分たちの家だと思われがちだけど、土地もお寺も自分たちのものではありません。実は24時間365日対応可能な住み込みの家事、来客電話対応要員というのがしっくりくる。最近の私がずっと気を張り詰めている訳ではないけれど、そういう「家」と仕事がごちゃまぜなのが地味に疲れる。お寺のことをしてるのに「専業主婦」と言われ、専業主婦をしてるのに「お寺の奥さん」とかお嫁さんと呼ばれる。宗派からはお寺以外のどこでも役に立たない「寺族」という名前を与えられ、僧侶と結婚しただけなのに「寺族名簿」と言って妻たちの名簿が作られる。集まりなんかもある。強制ではないので私は今距離を取っていますが。

その他

夫が僧侶だというだけの人間が、宗教者寄りに見られてしまうということの怖さ。まぁ恥ずかしい話ですがその特別にみられる感じが気持ちよかったことも正直あります。今考えると私はどうしちゃってたんだろうと思いますが。

お寺にいると「お寺の人」というだけで急にヘビーなことを聴かされるなんてことがよくあります。相手がそう思ってしまう仕組みや社会認識があるので仕方のないことなんですが。私はそれがすごくつらかった。私自身は今は望んでカウンセリングの勉強をして資格を持っているけれども、勉強したからこそわかったのは、心の話を聴くっていうことはとても難しいこと、訓練も心構えもなくデリケートな話しをされるというのは聴く方にとっても、話すほうにとっても危険なことです。そうすると寺族さんにそういう勉強をしてもらおうっていう発想になりがちですが、これは妻の仕事ではなく僧侶の仕事です。他の職種や業界に置き換えるとおかしさがわかるのではないかと思うのですが。

それから

女性がお客さんに対応すると場がわらかい雰囲気になる。とてもよく聞く言葉で私もそれを役割だと思っていたんですけど、観光客が来るような大きなお寺にそういう存在の女性がいますか。そんなにニーズがあるならば「場をやわらかくしてくれる女性募集」という求人を出しては?

ところでちょっと話を変えますが皆さんは肩書きってありますか?その肩書きを口にすることは自然で簡単なことですか?

私はお寺で働いていますが、しっくりくる職業や肩書きがありません。「お寺で働いてる」とセットで「結婚した夫が僧侶なのでお寺の手伝いをしている。」という説明、言い訳が必要。これは結婚したらそうなっちゃっただけで私が履歴書を出して望んで得た仕事ではないから。専業主婦でもない。パート従業員というには拘束時間に限りがないしそれ以上の何かがつきまとう。本当に専業主婦だったら私も胸を張ってそう言うけれど、家族の外出中に留守番をしている時間のすべても仕事なんですよね。

家事の分担なんかでも、どっちか手の空いてるほうが…って言ったら私が手が空いてるに決まってる。僧侶じゃないのにお寺にいるから。ちなみに私と夫はこういう話は全部共有して気づくたびにその都度改善をしています。でもどうしたって立ちはだかる壁がある。最近は壁に疲れ果ててもいます。

ちなみに私は今扶養の範囲内でお寺からお給料を得ているけど、自分で選んだ仕事をして外貨が欲しいと思う。自分の収入という実感がない。自分の受けとめ方を変えるという方法もあるけれど、その大前提として構造的な女性差別があるから私はここにいて、そこから収入を得ているという事実を前にして簡単に割り切れない。当初は無自覚に自分で選んだことだけど抜け出すことが難しい。

 

透明な自動ドア

これまで色々と学ぶ中で「透明な自動ドア」という概念に出会いました。上智大学教授の出口真紀子さんがおっしゃっているものです。自分でドアを開けることなく透明な自動ドアがスイスイ開いて前に進むことができる、生きていけるのは「特権」だというものです。

この特権というのは立場が変われば私も持っているものだということも重要なポイントです。ここでは私のことについて言いますが、それぞれの個人的で政治的で社会的なマジョリティ性はどれも「差別」について考えるために必要なことなのでしっかり見ていきたいのす。

私が小さいことのように見えて日々疲弊してしまう案件の一つに「肩書き」があります。私は肩書き一つ名乗るのにもいくつもの手動のドアを開けないといけない。

自分で選んだ仕事をしたいと思っても、重い鉄のドアのノブをさがすところから始めないといけない。

シンプルに考えて、僧侶が仏教を伝えていくためにどうして女性が必要で、得てきたキャリアをお寺のものとして使わなきゃいけないのか?お寺は家族経営でやってきてそういう伝統だから仕方ないということをよく耳にしますが、その伝統って誰が何のために作ったんでしょうか。

男性が作ったのか、女性がつくったのか。

それを維持しているのは誰でしょうか。

その意思決定の場のジェンダーバランスは男性に偏ってないでしょうか。

変えることはしないんでしょうか。

 

ちなみにこういう話題になると「俺たちもつらい」という言葉が聞かれますが、最終的に自己実現して僧侶になって、女性に支えられている構造があるということを心に留めてほしい。パートナーなんだから一緒に我慢をして当たり前と考えるのではなく、そのつらさの原因は仏教界や日本社会にあると考えて欲しい。

www.otsukishoten.co.jp

 

ちなみに私のお寺での居心地の悪さはお寺のことをよく知らないからかもしれないと思い、お寺の運営講座を受けたこともありました。

ほんの数年前の一時期はお寺の運営に力を入れて、寺族という立場からお寺のブログを書いたりしてアピールして、今思うと「わきまえた女」をやってたなぁと思うんですけれども。ちなみにこれはお寺に適応できない私が自分を振り返って思うことであって、お寺の運営に関わって才能を発揮してる素晴らしい方々もたくさん知っていますが。

でまぁそのブログの初回で「私の仕事はお寺の奥さん」で、それは「寺族」って言うんですと書いたことがありました。そのブログはずっとアクセス数高めの人気記事だったんですが、今思うとそれってこれから結婚する人や今苦しんでいる人に向けての「こうしてわきまえていきましょうね」っていう有害なメッセージにしかならないと思いそのブログはカテゴリーごと全削除しました。

 

以上のようなことも「差別はたいてい悪意のない人がする」という本によると、「構造的差別は、差別を差別ではないように見せる効果がある」、差別によって「デメリットをこうむる人さえも、秩序に従って行動することで、みずから不平等な構造の一部になっていくのである。」ということなんですね。

 

そろそろ時間なので最後に一言。

ここまで色々とお話ししましたが、とても虚しいことに、もしももしもの万が一夫に何かあったら私は仕事も家も両方いっぺんになくします。

寺族さんがいてありがたいなどと言っている曹洞宗からは何か手厚い補償でもあるんでしょうか。

これを聴いて少しでもモヤモヤっとした寺院関係の皆さまは、女性を応援するのではなく、ちなみに配慮もいりません。この構造を容認している当事者として一緒に考えて動いてください。