きのこの部屋

読後メモやお寺の中のジェンダーなどなどについて書いてます。

お坊さんと結婚してから抱えてきたモヤモヤの正体はジェンダー由来だった

私が、住職の夫と結婚してお寺にきて20年近く。
お寺にはいるけれど、私はお寺の奧さんという役割を背負うことをやめて「私」で生きていこうと思うまでの紆余曲折を書き残しておきます。

初めて「ジェンダー」(文化的、社会的に作られた性差)について当事者として考えた

結婚してから20年近く経つ。今まで得体のしれない違和感を抱えてきたけれど、それが「ジェンダー」と結び付いたら色んなことがクリアになってきた。最近はzoomで勉強会に参加できる機会も増えたのでジェンダーフェミニズムと名前のつくものにあちこち参加してみたり、本ではまず「82年生まれ、キム・ジヨン」を読んでみたり。

ずっと頭の中でグルグルしてること。

そもそも私は女性であることに不利益を感じずにきた。学校は女子校で、校長先生や理事長先生が女性なのは当たり前だったし、家でも学校でも女の子だからどうとは言われたことがなかったし、その後働くようになってからも人にも環境にも恵まれてずっとゆるゆるとやってきた。

キム・ジヨンのような目に合わずに役割を押し付けられることもなく、何かをあきらめることもなく、自由にやってきた。

それが結婚してから一変、ずっと苦しくて生きづらくて劣等感でいっぱいに。自己肯定感はだだ下がり。結婚してから感じていた違和感はお寺という構造に組み込まれた「ジェンダー」に由来するんじゃないかと20年近く経って今年やっと気づいた。

キム・ジヨン」の苦しさは、私が結婚してお寺に来てから感じ始めたものだった。

「お寺の構造に組み込まれたジェンダー」と一言で言っても、お寺の規模や宗派、地域、世帯(そこに家風みたいなのも入ってくる)ごとに「妻」の役割や働き方、お寺との距離を選べるか選べないかなど一つとして同じ例はないし、勤務状態、給与などプライベートすぎることでもあるので話しづらかったり。

同じような境遇にいても共有しづらいことだけど間違いなく「構造」に女性が組み込まれていて、それが実はたくさんの問題をはらんでいると気づいてきた。現代仏教の問題も多いにあるし、個人的な問題でもある。だから声を出しづらい。

でもあえて、とても個人的で、個人的じゃないことを書きだしておきたくなった。

お坊さんと結婚して

結婚してからの私はすごく無力になって自由でなくなって、主体的でなくなった。結婚してすぐに子どもができて、今思うと家があって夫がいて子どもを育てなくてはいけなくて。それだけがお寺にいる意味だったように思う。

おまけに私は仏教にもお寺にもどう頑張っても自分から何かしたいみたいな思い入れが今でもあるわけではなく、お寺にいることに劣等感でいっぱいで、しょちゅう体調を崩したり、心療内科にかかったこともあったし、カウンセリングもたくさん受けた。(カウンセリングを受けに行くと、お寺の奥さんがけっこう来るんですよと聞いたことがあった。)

家事だってそんなに得意でない。けど、そこから逃れられなくて苦しかった。しんどかった。辛くてしかたなかった。苦しいのもしんどいのも私だけのせいだと思ってた。場違いなところに来てしまったと毎日泣いてばかりいた。

子どもが小さいうちは夫はまだ副住職だったし、私はほぼ子育てに専念していたけれど、それだって掃除やお客さんへの応対、電話応対、法事や法要の準備などを「手伝う」。ずっと家にいるけど、ずっと家ではないところにいる。

物理的にも精神的にも「家庭」とつながっているので、「家のお手伝い」みたいな扱いになるし自分でもそう思っているところがあった。でも何だか違うという思いが常にあった。専業主婦でもない、お寺の仕事と言うほどでもない(今考えると全然仕事なんだけど)。それでいて専業主婦で、お寺の仕事をしていて、でも「家のお手伝い」と片付いてしまうモヤモヤ。

ママ友と話していて「仕事が忙しくってさー」なんて話すと、私の家のことを知ってる友達も「え?仕事してるの?」みたいに言われることも多かった。そのたびにモヤモヤしてた。

加えて「お寺」とか「お坊さん」という存在と言葉の破壊力。

最近は私も受け取り拒否ができるようになったり、流したりあきらめて折り合いをつけるという技を取得したけれど、住んでいるのがお寺だとか、夫がお坊さんと知った瞬間に相手との間にできる距離、または何だろう…私じゃない何かを見て話される感じ。

私はお寺さんでもお坊さんでもない。今ここにいるのは「私」でしかないのに。悲しい、淋しい思い。心がスース―していた。

私はあなたの思っているような「お寺の人」じゃないよって言っても「結婚したのに?」「お寺なのに?」「わかってたんじゃないの?」って言われると何も言えなくなる。

こんな人間がお寺にいてごめんなさいって思ってた。

■私の人生は誰のものでもないはず

苦しいながらもお寺のために何か役にたてたら居心地が良くなるかもしれないと考え、子育てがひと段落して落ち着いたタイミングで、グリーフケアの講座を受講した。

その時に「あなたのグリーフ(喪失)は何ですか」と聞かれてまっ先に湧き上がってきたのは「お寺に来てから私がいなくなってしまった。私がどこにもいなくなってしまった。」という思いだった。それに気づいたとき心にぽっかり大きな穴が開いたみたいだった。

外で違う仕事ができるものならしたかった。私の役割は他の人がやったらいいと思った。だって私にはここは向いていないし、お寺にいるのがつらくて、住職の妻なのもつらかった。

お寺で暮らしていればお寺や仏教への興味も出てくるかなぁなんて期待したり、勉強みたいなこともしてみたけれど、そればかりは努力ではどうにもならなかった。けっこう頑張ったけど。

住職の妻が外で働きたくても働けないのは小規模家族経営のお寺にはあることのようだ(他の人の事情はわからないけど)。

住職の仕事をサポートするのが妻の役割(=仕事)で、お寺という仕事がら急な仕事が入ることもあるし、予定が変更になるなんてしょっちゅう。様子を見ながら自分の予定をいれる。

「留守番」だって仕事だ。

結婚式のとき、あるご住職のあいさつで「お坊さんと結婚するということは、家族になることではなくお寺としての家族の一員になること。お寺の後継者を育てること。」みたく言われてモヤモヤした。

それまで感じたことのない違和感だった。

その後の子育てでも、自分がお寺にいることで不自由を感じていたから子どもたちにはあまりお寺を意識しないで育ってほしいと思っていた。無理に遠ざけた訳ではないけれど、押し付けもしないように。

娘が2人いるけれども、お婿さんをもらってお寺を継いでほしいとも思っていない。(そもそも女の子はお坊さんとして育てないというのが矛盾してる。)子どもの好きなようにしたらいい。

私は仏教のために、お寺の存続のために、私がいつまでもここに住み続けるために子どもを産んだわけじゃないから。

お寺は私有物ではないので、誰か他にお坊さんがここを継ぐならその時私たちはここを出ていくだろう。ずっと住んだ場所だから全く未練がないわけではないけれど。

ちなみに他の宗派はどうだかわからないけれど、私がいるお寺の宗派は世襲制ではない。夫婦やお坊さんがお寺を継ぐために養子に入ることもよくある。みんな世襲から自由になれたらいいのに。

お寺の運営の勉強をしてみて気づいた“お寺と女性”

夫が住職になって私とお寺の距離感や関わり方も少し変わってきたときに、色々な仕組みやルールがわからないまま宙ぶらりんで仕事をするよりも主体的にお寺の運営に関わったら自分の気持ちが少し楽になるかもしれないと思い、お寺の運営講座を1年間受講した。

事前課題、事後課題とあって、企画や課題を考えたりするたびに、私の場合はまず自分とお寺との距離感を考えるところから始めないといけなかった。主語をはっきりさせないといけなかった。そのことでお寺に関することは私から湧き出てくるものではないと気づきだした。

そこで学んだことはとても役に立っているけれど、同時に、学べば学ぶほどに、お寺のことはお坊さんだけでやったらいいのに、なぜ、「嫁」が必要なんだろう。と考えるようになった。

お坊さんやお寺に個人的にどうこういう思う気持ちはこれっぽちもないけれど、お寺って、仏教って都合のいいように女性を使ってるなあっていう思いが湧き上がってきた。

従業員さんを雇えないお寺には「嫁」がいると便利なのである。お寺に女性がいて玄関で笑顔で迎えると柔らかい雰囲気で安心されるみたいな考え方がお寺にも一般的にも(少し前の私にも)まかり通っているけれど、それだってお坊さんがやることでしょって思う。私もそうしてるけど。人としてそうしているだけ。女性だからではない。

先日初めてドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」を見てこれか!と思った。

「好きの搾取」だ。刷り込まれてきた伝統の呪い。

お嫁さんに来てもらうとか、お寺の中で専業主婦的であることと、女性らしさ、柔らかさを求められなんてたまらない。

女性が結婚後でも選択肢を持って望んでいるならいいと思う、でも女性にそれを期待して結婚するならそれは違う。ちゃんと求人を出したらいいし、これからは結婚して女性にお寺に入ってもらおうとか考えないほうがいい。

少子化も進んでいるし、結婚がすべてみたいな価値観もどうかしているし、お坊さんは尊い仕事だから女性が家族になって協力するのは当たり前とでもいうのだろうか。

これだから日本のジェンダーギャップ指数は世界153か国中121位という記録を打ち出しているのだ。私も気づくのに時間がかかったけれど。というか121位だから気づきにくいのか。

女性がお寺に「入る」ということ

女性が結婚してお寺に入る(とはあまり言いたくないけど事実)ということは、キャリアを捨てるということ(あくまでも私の感覚。色んな人、その立場がぴったりきてる人もいると思う)。

夫に何かあったとき仕事はどうしようと思ってよく日曜の求人広告を見たりもしていた。というのもお寺というのは私有物ではない。お寺は自分の家ではない。夫になにかあったら住職の妻は仕事も家も失う。そのとき結婚することは「お寺としての家族の一員」になると言った宗門の皆さんは、宗門として私の生活や家を支えてくれるんだろうか。そうなった時は家族や個人の責任ということになる。

自助、共助、公助。どこかで聞いたスローガン。

そうやって、夫に何かあったら仕事も家も失うような存在でありながら、宗派内には妻たちの会があって、強制ではないけれど、住職副住職の妻たちが志も方向性もお寺や仏教との距離感も違うのに組織を所属して(させられて)一緒に講習会を企画したり親睦会的なものをする。拘束時間がそれなりにあるのに無給。まるで昔の社宅のようで、夫の地位やらお寺の規模で色々が決まっているように私には思えて、首をかしげることも多かったし、夫あっての妻たちの場なので自由に発言も意見交換もできない。

だいたい妻であることが仕事ってなんだ。

そんな風に女性も宗派に組み込まれているようでいて何かあったらさっぱりとさよなら。宗派でそうやって女性の役割を作って、共にに歩んでまいりましょうとかいう割には寺族には寺族の勉強会の機会しかなく、住職たちが受けられるような濃い内容の講座からはお呼びがかからない。

「女性活躍」の場を男性が「作ってあげてる」感。考えすぎかもしれないけど。あ、これも個人的にどうこうは言うつもりはなくて私が感じてる仕組みの話。そのような場が合っている方にとっては大切な会なのだと思うけど、皆に同じように合うかどうかは別で、私にとっては苦痛でしかなかった。

夫婦別姓論議も似たようなものがある。夫婦別姓がけしからんと思う人は同性にしたらいいし、別姓がいい人は別姓にしたらいい。

役割の押し付けはごめんだ。

数年前にすごーく大きな違和感を感じたことがあった。宗派内のある場面で戒名をもらったのだが、その戒名が夫の名前と私の名前を組み合わせたものだった。それを見て私は何だこれ!!って思った。

夫あっての私!?

いやいや、夫婦間でそうしたいね!と言うならいいけれど、宗派からつけられた戒名がそれっていうことは、あなたは住職あっての人間で、夫あっての人間なんだと言われたみたいですごーくイヤな気分になった。これは夫を好きとか尊敬しているとは別のはなし。夫とは対等な立場で結婚したんだし。でもその戒名のつけかたは宗派の体質そのもなんだと思った。意識してか無意識なのか、女性は僧侶を補佐する存在にすぎないと言っている。

先輩フェミニストとの出会い。権利との出会い。カウンセリングとの出会い。

去年初めてずっと女性と仏教について様々な立場の方が執筆している冊子を手にして、ここまで書いてきたような私が感じていた違和感の全てがそこに書かれているのを読んで、こう考えているのは1人じゃなかったと安心したり、思いのほか自分が構造に組み込まれて、自分にも刷り込まれたものがたくさんあると気づいて悲しくなったりしながら何度も何度もそれを読んだ。


多くの小規模寺院で必要とされているのは、僧侶が弟子ほど気を使わずにお寺のことや身の回りの「お世話」をしてくれる「専業主婦」だというようなことが書いてあった。

宗派の主催でマッチングパーティーがあるけれど、「僧侶と結婚したい人」「お婿さんにきてくれる人」枠はあるけれど、「尼僧さんと結婚したい人」のパーティーはないと。尼僧さんは女性だから家事もできるからというようなことも書いてあった。

お坊さんが結婚して相手にお寺で働いてもらうという制度自体ができたのが、明治時代らへんのこと。「僧侶という立場も結婚も」「仕事も家庭も手に入れたい」という男性(僧侶)の目線がこの状況を生み出している。夫が言うには、その前から僧侶が結婚したいけど、役割がないとお寺に住めないから、一緒に住むためにお寺での役割を作ったという説もあるそうな。

だからって今のお坊さんを責めたりしているわけではないけれど、でも昔むかし、そういう仕組みが作られたのは事実。「家族」ということばの罠。女性という存在の軽視。

日本国憲法13条には「すべて国民は個人として尊重される」、24条には両性(今はもっと広義だが)の平等について書かれているが、仏教界はどうだろう。

仏教界もお坊さんも結婚して「嫁」に来て「女性らしさ」をもってお寺の手伝いをしてもらうとか、そういう発想はもう捨てないと。仏教界は差別を考えるとか男女平等とか言っているいけれど、足元を見ないと嘘になる。

とはいえ20年近くモヤモヤしているだけでその仕組みに気づかなかったくらいだから、私の中にもその種はたくさんあると自覚して意識していかなくては。

何年か前に日本国憲法に出会って、13条「すべて国民は個人として尊重される」という条文を知って、私はお寺の奥さんである前に「個人」として生きていいんだと思えた。考えるのは自由(19条)とも書いてあると知って、結婚して抑えていたものが緩み始めた。

さらに私はこれだ!と思えるカウンセリングに出会って、初めてアドバイスもジャッジもされることなく話を聞いてもらって、結婚して初めて素の私の声が出せた。

お寺のことや家族のことはやっぱり人には言いづらい。

だから安心安全に聴いてもらえる場所が私には必要だった。そしてどんどん自分に正直に、自由になれてきた。その後カウンセラーになるための講座を受講して、慣習や「当たり前」に囚われない自分の本当の気持ちに出会えて自由になれた。

鉛の鎧を脱ぎ捨てる

私はつい最近まで自分の仕事を「お寺の奥さん」と言っていたのだけれど、それも言いながらずっと違和感があって小さく傷ついて、言う度に何かが心にひっかかっていた。

実のところモヤモヤしつつもそれが現状を言い表しているとも思っている。

今は自分の考えてることややりたいこととのお寺との共通項を見つけてその中で主体的に仕事をするようにしている。

ただあくまでも、お寺の維持は僧侶の仕事であって、たまたま妻になった人間の役割ではないという立場だ。

自由になろう。

自由でいよう。

お坊さんと結婚したからって、無理に仏教やお寺に私を寄せなくたっていいのだ。

ここで私の最善を尽くそう。

ガラスの天井は壊そう。

仕組みの問題を個人の問題にすり替える鉛の鎧は捨てよう。

だけれども、これを私がこんな風に思えるようになったっていうきれいごとのにはしたくない。何かしら次につながるようなことをしていたい。

風も通らないような小っちゃい穴を開けるような作業かもしれないけれど。

何言ってるんだって思われるかもしれないし、まとまりもないし、辻褄もあってないかもしれないけれど、20年近くずっと違和感を感じてきてたどりついた考えだ。

これは私の感じたこと、私の体験したこと、私のケースにしかすぎないので、他の方に当てはまるかどうかはわからない。

でもこれは個人的なようでいて、今の仏教界がはらんでいる問題なのだ。