ブログ削除完了
お寺のホームページで私が書いていたブログを全削除した。
去年の春にお寺のHPの中で私のブログを始めて最初に書いた「お寺にいる人の呼び方」を解説した回のものが1年以上経ってもコンスタントに読み続けられていたのだけれど、自分の仕事は「お寺の奥さん」だとか、僧侶のことはこんな風に呼んでみたらとか、今読むと「わきまえた嫁です」宣言でしかなくて自分がえぐられるし、今も読み直してすごく鬱々とした気持ちになったから。
そして自分が仏教界における構造的差別というものの真っ只中にいることがわかった今となっては、このブログは存在自体が僧侶と結婚した女性が枠に収まることを助長するものでしかないし、途中で自分の記事に違和感を感じて訂正した記事のリンクを貼ってはみたもののそちらは全然読まれず。
正直、お寺のホームページの中では常に読み続けられていたコンテンツでアクセス数は常に上位だったし、楽しみにしていると声をかけてくれる方も多かったので迷ったけれど、それでは構造的差別を受け入れて広めることになるし、害にしかならないので全部まとめて消すことにした。
「嫁」という装置
「一般からお寺にやってきた女性がお寺で暮らすうちに仏教に目覚めて今では立派に夫をサポートしている」というストーリーはたくさんあるし、私もそうならねばと思い、憧れてさえいた僧侶の妻像だったりするんだけど、仏教界に限らずそういうストーリー、おかしくない?
お寺が家族経営だという状態を私も「当たり前」に思っていたし、わかっていて結婚した。
でも、仏教やお寺を存続させたいのは僧侶でしょ? その為に女性は仕事をやめて「僧侶の妻」になるのが当たり前って何?
知り合いの僧侶が結婚するとなると妻となる人の仕事の話題になったりもするのだけれど、それを聞くと「辞めちゃうなんてもったいない」と、いつも私が勝手に悔しくなるし、私も僧侶と結婚するから仕事やめようなんて思わずに仕事を続けていたらどんなだったかなぁと考えたりもする。
結婚したら寺族だとかなんとか「それらしき名前」を与えられて「それらしき役割」を与えられる。
それも当たり前だと思っていたけれど、今となっては男性中心の仏教界は良い装置を考え出したものだなぁと思う。妻となった女性に首輪をつけて、鎖で繋いでそこそこ自由にした上でお寺の顔になれと言っているようなものだ。乱暴な話だ。
女性の人生は僧侶の自己実現のために、お寺の存続のために捨てろというのか。
大切にしたいこと
仏教界もSDGsだのジェンダー平等だのと言い出したけれど、ごくごく一部を除いては内部のジェンダー問題については絶対に触れないし、そもそも僧侶の数だって男性が圧倒的に多い。
お寺での仕事も妻が心から仏教やお寺が好きでやっているならばいい。「それが」したくて、履歴書を出してでもしたいようなことならば。
僧侶と結婚してお寺の中で活躍していてすごいと思う人はたくさんいる。そういう人を見て勝手に劣等感を抱いたこともあったけれど、ものごとには向き不向きがあって、私には向いてなかっただけのこと。そしてやってもやらなくていいことである。
向いていたらこんなに苦しまなかっただろうと思ったりしなくもないけれど。私はこれでよかったし、気づいた今は最高に解放感でいっぱいなのでこれで悔いはない。
私に私が100%戻ってきたのだから。(それでも物理的には「僧侶の妻」としての制約はある。)
ともかく、お寺を知ってもらうためのツールで私の主張をするのは違うのでもうこれ以上訂正することをやめて、ブログの存在ごと全削除した。
仏教界にとって都合のよいように扱われたくない。
消費されたくない。
妻は僧侶の付属品ではない。
仏教行事の場やお寺に「妻」は必要か
ブログを消すより少し前に、「お寺なんだから着物着ること多いでしょ圧」を感じて仕方なく持っていた着物も、気に入ってるものと「どうしてもの時用」のもの以外は寄付してさっぱり。
ちなみにどうしてもの時というのは大きな行事のときに「妻」っていう役割で夫の隣でご挨拶したりするやつ。
厳密に言うと、大きな法要に最前列で参加できたり、夫と一緒に偉い(らしいけど正直私はどうでもいい。)僧侶に挨拶に行けたり、集合写真をとる時にセンター近くにいられるとか。
推しのファンクラブ特典だったら最高だ。ペンライト振りまくりだ。
でもそれは、滅多にない体験だとは思うけれど、私にとっては正直嬉しくもないし、なくていい特典だ。家でNetflixでも見ていたい。
だって結婚しただけだもん。
結婚して1度「嫁」になったら最後、私の全権を渡さないといけないのか。
僧侶がたくさんいる大きなお寺の行事で「妻」を見かけるだろうか?
住職の横に妻は必要だろうか?
寺のことは僧侶の仕事じゃないの?
何で妻???
えっ、妻?
妻いる?????
本来は僧侶だけで成り立つことに女性を巻き込むのはもうやめませんか。
そんな訳で夫には、今後はどうしても of どうしてもの時以外は「妻」をやりたくないと宣言し、それでもどうしても of どうしても of どうしても「妻」が必要ならば、別途労働手当が必要だと要求した。
(ちなみに私のいるお寺では、お寺の収入は住職に入る訳ではなくお寺の収入になるので住職の裁量だけで使途自由に使えるわけではない固定給です。どんなに休みなく働いてもです。お寺=家が大きい=お金持ちみたく思われることが多く、結果私もそう思われたりするけれど、お寺は「私財」ではないので例えればマンションの住み込み管理人とかそういうイメージです。そこに代々住み続けるためにも「イエ」や嫁が必要なのでしょう。その話はまたいつか改めて。)
ジレンマを抱えながらも
こんなことを書きながらも私もこの構造の中にどっぷり身をおいて生活しているというジレンマがある。ここで生活をしている。住み慣れた場所でもあるし、ここで働いている。仕事の中に楽しみを見つけてしまった。ここでの暮らしに慣れてしまったし、今はそれなりに気に入ってしまった面もある。また変わってくるだろうけど。
これがまた妻たちが声を挙げづらい理由の1つなのではないかとも想像する。私がそうだっただけだけれど。
だからといっておかしいと思ってはいけない理由もないし言っちゃいけない訳でもない。どっぷり浸かっていた&いるからわかったこともある。
色々わかってきたらこそ、今まで自分が悪いと思っていたことがほぼほぼ構造のせいだとわかってきたので自分がとても楽になったのだ。
正直、ここで小さな声をあげたところで何かが変わるとは思っていないけれど、それでも私はこの構造にNOと言い続けていきたい。